戦績
わが鈴が峰から4人のプロゴルファーが誕生している。いずれも小・中学生時代にはじめてコースに立ち、その後メンバーからプロになった、
わが国のプロゴルフ界では、きわめてまれなケースである。倉本昌弘、倉本泰信、横田英治、そしてこれからというときに28歳で世を去った小島礼志。
彼らをはぐくみ、日本へ世界へと羽ばたかせたのは、まぎれもなく「初心者も上級者もともに楽しめる、戦略性に富んだ」と称される鈴が峰コースである。
4人のプロのなかで、倉本昌弘は、14歳で会員になっている。11歳違いのいとこの倉本泰信は中学2、3年生のとき、横田英治は2人よりやや遅れて高校3年生のときに会員になっている。小島礼志は13歳、小学校6年生の3学期から会員として、ゴルフを始めたというから4人の中では最年少のゴルファーだった。 しかし、その才能の芽生えは、まさにわれわれの想像をはるかに超えるものがあった。
ゴルフを始めたきっかけについて、それぞれ次ぎのように話している。
倉本昌弘「父がゴルフの練習をしたいために、僕の面倒を見るということを口実にして舟入の福井康雄先生のゴルフ練習場へ一緒に連れて通っていたらしいんです。そのうちそばでちょこちょこ、まねごとをしている僕を福井先生に預けたようで」。
倉本泰信「父親がこちらのメンバーで、ゴルフをやっていたことが一番、影響しています。もちろん昌弘さんの影響もありますが。僕があるとき、庭でクラブを握ったら父親がとても喜びまして。そんなに喜ばれるんだったらやってみようかと」。
横田英治「13歳ぐらいだったと思いますが、父親の勧めで始めました」。
3人ともゴルフ好きの父親の影響を強く受けている。しかし、父親が果たした役割は、ほんの動機づけに過ぎなかった。おそらく、その後の壮絶な練習の日々がなかったら、その豊かな才能も大きく花開くことはなかったろう。倉本昌弘は、休日は前日からクラブハウスに泊り込んで、夜中にボールを打ち、翌朝にボールを拾いにいくというユニークな練習を繰り返した。暗闇に向かって打ったボールは、上達するにつれ、同じ場所に集まるようになった、と倉本昌弘はいう。倉本泰信は、練習場に毎日通い、週末は鈴が峰でキャディをしながら腕を磨いた。横田英治も練習場に通いながら、チャンスがあればコースに出た。
そんな少年たちを深い愛情を持って支えたひとりのプロがいた。当クラブ所属の松本仁志プロである。松本プロは、才能豊かな少年たちに「大振りするな」「クラブは力まかせでなく、柔らかく振ること」「切り返しのところでどれだけ力まずにクラブを下ろせるか」など指導はきわめて厳しかった。少年たちは、松本プロとラウンドしたときには「教わるというよりは目で覚えていった」(倉本昌弘)という。
「栴檀(せんだん)は二葉より香(かんば)し」という。よき指導者を得た少年たちは、松本プロの適切な指導を貪欲に吸収し、めきめきと腕をあげていった。倉本昌弘は、中学3年生のときはじめてクラブチャンピオンで優勝し、高校生時代は2年連続でクラブチャンピオン、キャプテン杯、理事長杯の3冠を制した。高校3年生のときにハンディはゼロ。倉本泰信は、中学3年生でキャプテン杯、理事長杯を制し、クラブチャンピオン杯は、中学校3年生から高校2年生までは決勝で敗退したが、高校3年生のとき見事優勝を遂げている。
横田英治は、中四国ジュニアの中学生の部で優勝し、小島礼志は高校3年生のときに中国アマチュアゴルフ選手権競技で栄冠を手にした。 その後、倉本昌弘は、高校3年生で日本ジュニアゴルフ選手権で優勝し、日本大学進学後は1年生のときから卒業するまで日本学生ゴルフ選手権の王座を譲ることがなかった。前人未踏の大記録である。プロ転向後は、日本プロゴルフ選手権など27勝をあげ、一時代を築いた。1992(平成4)年に終身シード権を獲得し、1997(平成9)年からは日本ツアープレイヤーズクラブの会長を務めた。
倉本泰信は、高校卒業後渡米し、イーストテネシー大学に入学。ゴルフ部に所属し、大学時代にはオールアメリカンに2回、選抜された。また大学4年生のとき、日本アマチュァ選手権にも優勝した。「日本一になって当然みたいなところがありましたから。これも昌弘さんのおかげかな。身内から優勝者が出ている大会ですし」と話している。
横田英治もすばらしい戦績を残している。「高校3年生夏にはばんばん60台が出始めて急にスコアがよくなった」という、専修大学2年生のとき関東学生ゴルフ選手権を丸山茂樹らと競り合った。その後、プロに転向後の2000(平成12)年にはPGAフイランスロピーで62のツアープロの記録を出し、大会7位タイになった。
小島は中学、高校と試合に臨むたびに成長し、高校3年生のとき中国アマチュアゴルフ選手権競技で優勝。朝日杯全日本学生選手権も制した。なかでも1994(平成6)年、広島市を中心に首都以外の都市で初めて開かれたアジア競技大会の代表選手に選ばれ、見事金メダルを獲得したのが特筆される。
こうした4人のプロが育った鈴が峰コースについて、それぞれ次ぎのように語っている。いずれも、コースの特色を自らの研鑚に生かしており、きわめて興味深い。
倉本昌弘「今は違いますが、手前のフエアウエイが狭くて、その先が広くなっています。だから飛ばすことが第一。飛んで曲がらなければ、はるかにアドバンテージがありました。これがダイナミックなゴルフをするようになった要素のひとつ」。
倉本泰信「鈴が峰のコースにはつま先下がり、左足上がりといろんな傾斜がありますが、そういうところからのショットはほかの人と比べて上手だと思います」。
横田英治「平らじゃなくて、傾斜あるところからのショットなんかは、他のプレイヤーと差が出ると思うんですよ。鈴が峰では傾斜があるのが普通ですからね。試合に行くとコース自体は広いのですが、ティーショットなどでは、ポイントが絞られてきますから、鈴が峰での練習が生きてくるんです」。
鈴が峰から4人のプロが誕生した背景には、ジュニア育成のためのメンバーやクラブ側の理解も見逃せない。 横田英治は「会員の方たちがまだ子供だった僕とよく一緒に回ってくださいました。ゴルフ以外のことも勉強させていただきました」と語り、倉本泰信は「メンバーの方や支配人の理解があってこそできたことですから、僕にとってすごい財産です」と率直に話している。
「クラブがゴルファーを育てる」ともいわれる。社会や他のクラブが子供たちを容易に受け入れなかった時代、率先して子供たちにも門戸を開いていた鈴が峰の「大人」たちが、4人の優れたプロを生んだといっても過言ではないだろう。
会報「鈴が峰5・6・7号」より
倉本昌弘(くらもと まさひろ)
1955(昭和30)年生まれ
1969(昭和44)年入会
崇徳高校、日本大学
1981(昭和56)年プロ合格
倉本泰信(くらもと やすのぶ)
1966(昭和41)年生まれ
1985(昭和60)年入会
瀬戸内高校、
イーストテネシー州立大学
1991(平成3)年プロ合格
横田英治(よこた えいじ)
1971(昭和46)年生まれ
1988(昭和63)年入会
瀬戸内高校、専修大学
1996(平成8)年プロ合格
小島礼志(こじま れいじ)
1972(昭和47)年生まれ
2000(平成12)年没
1985(昭和60)年入会
瀬戸内高校、日本大学
1998(平成10)年プロ合格